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第36話 病人を作る者たち

last update publish date: 2026-10-14 13:47:17

第36話 病人を作る者たち

 正午を告げる鐘が鳴り終わっても、記録官の羽根筆は羊皮紙へ触れなかった。墨を含んだ先端から黒い雫が落ち、まだ何も書かれていない欄へ小さな染みを作っている。

「聞こえませんでしたか」

 セヴランが重ねて命じた。

「被裁問者が治癒の奇跡を拒み、条件で禁じられた薬を使用した事実を記録しなさい。あなたの役目は、個人的な感情を差し挟むことではありません」

「しかし、司教様……」

「記録しろと申し上げています」

 記録官は震える手で筆を下ろそうとした。その手首を掴んだ者はいなかったが、筆先が羊皮紙へ触れる直前、エララが静かに声をかけた。

「書くのであれば、その前に裁問条件を最初から最後まで読み上げてください」

「すでに何度も確認しました」

 セヴランが苛立ちを隠さず答えた。

「いいえ。あなたが都合よく切り取った箇所だけです。治療方法についての条件を記録するなら、患者の同意についても同じ

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    第36話 病人を作る者たち 正午を告げる鐘が鳴り終わっても、記録官の羽根筆は羊皮紙へ触れなかった。墨を含んだ先端から黒い雫が落ち、まだ何も書かれていない欄へ小さな染みを作っている。「聞こえませんでしたか」 セヴランが重ねて命じた。「被裁問者が治癒の奇跡を拒み、条件で禁じられた薬を使用した事実を記録しなさい。あなたの役目は、個人的な感情を差し挟むことではありません」「しかし、司教様……」「記録しろと申し上げています」 記録官は震える手で筆を下ろそうとした。その手首を掴んだ者はいなかったが、筆先が羊皮紙へ触れる直前、エララが静かに声をかけた。「書くのであれば、その前に裁問条件を最初から最後まで読み上げてください」「すでに何度も確認しました」 セヴランが苛立ちを隠さず答えた。「いいえ。あなたが都合よく切り取った箇所だけです。治療方法についての条件を記録するなら、患者の同意についても同じ記録へ残さなければ、公正とは言えないでしょう」 エララは記録官の前に置かれた羊皮紙を指し示した。教会と竜皇国が事前に交わした裁問条件には、両者の署名と封蝋が並んでいる。その周囲には、契約が結ばれたときには存在しなかった黒い糸が浮かんでいた。 糸はセヴランの署名から生まれ、患者の選定と家族の同意を定めた部分へ絡みついている。誓約の言葉と実際に行われたことが食い違い、契約そのものが内側から腐り始めているのだ。 エララにしか見えないとしても、そこへ至る証拠は、すでに人々の前へ並んでいた。「記録官、患者の同意に関する条項を読んでください」 男はセヴランとケイルを見比べたあと、覚悟を決めたように羊皮紙を持ち上げた。「第五項、患者本人が意思を示せない場合、親権を持つ家族の自由な同意を必要とする。教会ならびに竜皇国は、脅迫、買収、債務、身分上の優越、その他の手段を用いて、患者または家族へ参加を強制してはならない……と、記されております」 広場に再びざわめきが起こ

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    第34話 声を奪う誓約 ミリアの喉に巻きついた黒い糸が縮むたび、細い首の皮膚が内側へ引きつれた。見えない手に気道を塞がれた彼女は、娘を抱いたまま激しく喘ぎ、どうにか声を出そうとして唇を震わせている。「私は、飲ませて……いな……」「もう話さないでください。あなたが黙っていても、あの薬を飲ませた母親だとは考えません」 エララはミリアの肩を支え、喉元へ手を伸ばした。黒い糸をほどくためではない。これほど強く締まっているものを力任せに断てば、何が起きるか分からなかった。 この誓約は、ミリアの命だけを代償にしているのではない。 喉を縛る黒い糸の一本が、担架に横たわるエマの胸へ伸びていた。母親が禁じられた事実を話そうとするたび、その糸が母娘の間で張り詰め、少女の心臓に絡みついた糸まで深く食い込んでいく。 母親に真実を語らせれば、その苦痛は娘にも届く。相手はミリアが娘を守るためなら何も言えないと知ったうえで、二人の命を同じ誓約へ縫いつけたのだ。「切ってはいけない」 エララの言葉を聞き、剣を抜こうとしていたケイルの手が止まった。彼が狙っていたのは糸ではなく、それを結ばせたと思われる者だったらしい。金色の瞳はセヴランを捉えたまま、怒りを隠そうともしていなかった。「誰を切るつもりだったのかは聞きませんが、今は何もしないでください。この誓約には、エマさんの命まで組み込まれています」「母親が話せば、娘が死ぬということか」「そこまでは断定できません。ただ、ミリアさんの喉を締める糸と、エマさんの心臓を覆う糸がつながっています。片方だけを無理に断てば、残された力がもう片方へ流れ込むかもしれません」 ケイルは低く息を吐くと、セヴランを睨んだまま剣から手を離した。怒りを抑えたというより、あとで必ず使うために鞘へ残したような諦めの悪さがあった。「ならば、あの司教を拘束して誓約の解除を命じる」「おやめになったほうがよろしいでしょう」 セヴランが静かに口を挟んだ。「先ほどから申し

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    第33話 治せないと答える勇気 母親の喉を締めつける黒い糸を指摘しても、セヴラン司教は驚かなかった。見えないものなど存在しないと笑うでもなく、エララの主張を認めるでもなく、ただ幼い子供をあやす大人のように、困ったものだという微笑を浮かべている。「誓約を解けとおっしゃいますが、そのようなものは結ばれておりません。もし本当に黒い糸が見えるのであれば、まずは皆にも分かる形で証明なさってはいかがですか。あなたにしか見えないものを理由に裁問を止めれば、どのような結果であっても言い逃れができてしまいます」「止めるとは申していません。ミリアさんの意思を確かめるまで、治療を始められないと言っているのです」「この母親は、娘を救ってほしいと何度も訴えています。それ以上、何を確かめる必要があるのでしょう」「言葉が本人の意思から出たものかどうかです。司教様には、ずいぶん理解しにくい違いのようですが」 エララが返すと、広場のあちこちから低いざわめきが起こった。観衆の一部はミリアが喉を押さえて苦しんだ姿を不審に思い始めていたが、それ以上に多かったのは、議論を続けるエララへの苛立ちだった。目の前では少女の呼吸が弱まり続けている。事情を知らない者にとって、母親に誓約があるかどうかは、大人同士が勝手に作った問題でしかない。「話している間にも、その子は死に近づいているんだぞ!」 最前列にいた中年の男が、人垣から半身を乗り出して怒鳴った。粗末な上着をまとい、日に焼けた頬には涙が伝っている。「俺の息子は五年前、流行り病で死んだ。助けられる者がいるなら、どんなやり方でも助けてほしかった。あんたたち偉い人間には面子も決まりも大事なんだろうが、親にとっては子供が息をしてくれることより大事なものなんかないんだ。違うか!」 その言葉には、見物人の無責任な残酷さだけでは片づけられない痛みがあった。エララは反論できなかった。息子を失った男にとって、慎重さは美徳ではなく、助けられなかった者が自分を慰めるために使う言い訳なのだろう。 別の場所からも声が上がった。「本物の聖女なら治してみせてよ!」「できないから時間

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